別におっていた訳でもないけどなんとなく好きだったZOC

 

 

別に追っていた訳ではないけどなんとなくZOCが好きでした。

ZOCが出来た時の衝撃はとても強かった。周りの女の子たちはZOCの子の顔写真をSNSのアイコンにしていたし、知らない子ともZOCいいよねと言い合った。ミスIDのエントリー動画を見たり、個人の個性を知るためにミスID審査員のコメントを読んだりした。藍染カレンが自信なさげな佇まいから繰り出した重たい覚悟の灯るダンスパフォーマンスへの感動と驚嘆は今でも藍染カレンを見るたびに思い出す。かてぃの顔面の強さは伝説だった。退廃的な雰囲気と本人の個性的な感覚と合わさって誰にもない引きずり込まれて愛してしまう魅力があった。戦慄かなのは容姿の可憐さよりもずっと強烈に内面の強さを示していた。起業家をアイドルにしたのか、くらいのリアルと強さ、人生の覚悟を持って立っていた。華のある3人のメンバーに加え、さやぴ、にっちゃんのメンバーを含めてZOCは始まった。ZOCは地のそこから這い出てきたドラマティックなアイドルだった。

 

ZOCは立っているだけでアイドルだった。

ZOC活動休止の流れを受けてはじめてA INNOSENCEのMVを視聴し、泣いた。

せいこちゃん(度重なるパワハラ疑惑と対応不十分を承知の上でせいこちゃんと呼ばせて頂く。せいこちゃんには私も鬱の夜に朝まで泣きながらピンクトカレフのオーバーザパーティを聴いた恩があるため)の底力のみなぎる世界観でアイドルという存在の輝きをまず何段階も底上げしている。これはせいこちゃんありきでないと出せない味だとまず思った。せいこちゃんに作曲だけさせるのであればこの肌にピリつく存在感は薄れ、女の子たちのかわいさの中に何かしらの本質は埋もれるだろう。そもそもせいこちゃんのパフォーマンスは音が外れるのを気にせず叫ぶなどの調和を敢き引き裂くことで訴えかける強烈なもので、好き嫌いが分かれる。その段差を乗り越えた先に、ズタズタになった心から発せられる終世の祈りが聴こえる。ZOCというビジュアルがよくて愛おしい痛みを理解するのには、せいこちゃんのパフォーマンスという癖はあってこそだと、あのMVを見る限りで感じる。ZOCがただのかわいいアイドルになってしまったらZOCじゃない。仮にせいこちゃんが楽曲提供のみに収まったとして、「ZOC」は受け入れる大衆への門を広くするだろうが、それはせいこちゃんが表現したいものではないだろう。単なるかわいいの消費を甘んじながらそれだけではないと口だけで抵抗し続ける、なあなあなだけのアイドルに収まるのではないか。

 

次に感じたのは戦慄かなののパフォーマンスのプロ意識の高さだった。精神性を感じるレベルで洗練されている。パフォーマンスをひっぱっているのは藍染カレンと戦慄かなのだった。この実力を持っていればグループから抜けてもやっていく方法はいくらでもあるだろうと予想がつくし、グループに必要な重要メンバーとして大事に扱うべきだったのではないか、と違和感を覚える。終わってしまった時点での意見を言ってもしょうがないが、薬物疑惑をかけて追い出すような結末で放り出していい役じゃない。

そもそも、せいこちゃんのZOC理念を近い場所で理解できた可能性があるのは戦慄かなのだったと思う。親密であったころの戦慄かなののポストから、戦慄が身内のために感情の深くまで掬い取って味方になれる人情に熱い人間だと認識しており、加えて戦慄は頭がいい。自分の役割を全うすることに埋没しがちに見える藍染とはまた違い、周囲の相関を察しやすく、正義感が強い。正しく誠実に接することができれば、と惜しむべきだ。

 

巫まろとせいこちゃんの齟齬(せいこちゃんのファンを切り捨てた発言に受け取られるファンへの全体ラインを受け、ファンへフォローする意図でポストをするが、それが却ってせいこちゃんの理念に反するものであったため軋轢を生み、パワハラ証拠として音声流出している件)については、まずシンプルパワハラだと思う。上司が部下に業務上の齟齬を感じたとき、主張するべきは自分が傷ついたという論点ではなく認識相違に際する調律であるべきだ。人としての行動規範を考えても、傷ついたという緻密な感情の吐露は暴力的に行われるべきではない。コミュニケーションは渡し手と受け手に橋がかかっているという実感の中で慎重に行われるものである。

巫まろはハロプロ出身のアイドルだと聞いた。アイドルとしてアイドルをやっていたアイドルと、アイドルを一種破壊してアイドルを創っている人間のアイドル像が努力もなしに重なることがあるとは思えない。

他のメンバーだってせいこちゃんとを分つ壁がある。若い女の子に、アーティストとしての大先輩が抱える世界観、価値観を100%理解できるはずはないのだ。アイドルというビジネスパートナーとして捉え直し、まず相容れる存在ではないこと、己の支配下にある存在では当然ないことを認識し直すべきであったが、その最大の瑕疵についての表だった表明も内省も開示なく今日まで来ているのは、率直に、精神性を作品に反映することが創作活動の起点となるアーティストとして、猜疑の視線を向けられる行為である。

 

様々な感情が方向を変えながら渦巻くこの事態の中で、ひとまずZOCが活動休止となったことで一旦はせいこちゃんのアイドルプロデュース業が静止した点を安堵する。そして、ZOCを追っておけばと悔いる。藍染かてぃ戦慄のショットが見たいよ〜〜。

 

 

 

 

散った花を名付けることはできない

 

私の話を聞いてくれる人がいた。

それは過去の私が身を寄せたものであり、他の諸事物と同様に過ぎっては翻るものであり、私のものだと口にする権利をしずかに失ったもの。私の話を聞いてくれる人がいない。がむしゃらに走って、つまづいて泣いて、腰を下ろして一息ついたベンチに私は一人だった。紙とペンはあった。音楽と私の部屋はあった。他人が揃えたテレビやスピーカーのライフラインがあった。それに気付く人生の節々で、私は一人ではなくなる。私を愛してくれたのかもしれない人たちが本人がそうと悟るよりも先に与えた反孤独の真綿の手触りが、私の背を撫でている。クッションの厚みが増した。出会いというものを簡素に表現するのなら、こうだろう。

話を聞くということにおいて、人を不快にさせない人だった。いい人柄をした、じっとりしたところのない人だった。彼を縮こめる鋭い視線の全てから自由であって欲しいと思っていた。自分が想定している自分と、他人から見える自分という幻覚の部分をまぜ併せて、彼が誰にも恥じることなく自分でいられる角度でいてくれるといいと思った。彼の周りのすべて、彼をいきいきとさせるよう廻って欲しいと思う。私は彼の手を借りて、善なるものに身を傾け、おのれの内部に腹をすかせて座っている邪悪なものの慰めに尽力した。彼を好きになる頃には、世界は朝露の爽やかを芳していた。彼と親しくすることは、私にとってはまったく善くいられるということだった。今はただ、それが私の心理的病理を慰めるための本能の手段でなかったことをひたに願う。私の話に退屈がらず付き合うことができる誠意のある人だった。その誠意がどこの誰へ向かおうとも、質を落とすことはないだろう。人の話を聞くことができるのなら、人の言葉を飲み込んで、自分ごとに向き合うことができる人なら、ロマンスていど造るに雑作もない。あの人と仲のいい人が私でなくても大丈夫だ。

 

こう見えて、以前に比べるといくらか健康になった。もう恋愛現象に関する諸々を必要以上蔑むこともないし、向けられたからといって怒りや恨みに支配されることも格段に少なくなるだろう。人に触れるだけ少しずつ生きやすくなる。同時にそれ以上、不健康にも生きにくくもなる。それを良い悪いで表現することは、生そのものを甘く見ている。もしくは、生の繊細で鬼気迫る揺らぎにあまりにも鈍い。

 

いつかまた、私の話を聞いてくれる人に出会いたい。その日が来ると信じる。

ただ生活に身を置くだけでは納得できる生き方が出来ないから、文を書く

 

 昔から、灼熱に熔ける銅のような怒りが奥から沸き立ち、私自身の存在根本から許せなくなることがあった。ほのぐらい情熱と呼ぶのかもしれない。病的であるし、不健康な黒炎でもあったし、命名可能な精神的な不調の方に近しい。これから語ることも、夜な夜な執り行われる袋小路を追っているだけなのかもしれない。内的な情感の反復を追うことにわかりやすい進歩はないかもしれないけれども、その可能性を知覚してなお私はどうしても、私について語りたい。私が私を語るという行為について、より親しく、自然に、深奥でありたい。

 つまり、現時点の視座による概論、結果論とはなるが、私が内的な創世をはじめた中学生の頃より、私の書く文章は私自身への不納得の狼煙だったと結論付けたい。内向的な子だった。穏やかな両親に大事にされたこともあり、現実世界に対してなんの対抗手段も持たない愚図であった。その反面におのれの非力を自己批判することでおのれの矜持を保っていた。精神を生かすため、肉体に付随する精神のほうを犠牲にした。現実世界のおのれそのものを受け入れることから身を躱した。現実世界はさまざまが混雑していて、ままならなくて、息苦しいところだったから。身を置いている間はそれさえも忘れて、おのれが苦悶の顔をしていることすら忘れている。だからこそ、現実を避けていることさえ忘れる。

 この世に自分の満足できる肉体と精神とを両立させて生きている人間はどれだけいるのだろうか。もしかすると、その瞬間を私はすでに忘れ去った時空で所有していたのかもしれない。あるいは私がふけるべきはおのれの空白の残骸を食い潰すことではなく、幸福の瞬間の輪郭を触れ尽くして、覚えることなのかもしれない。幸福の方こそ私の一部とするべきなのかもしれない。私が納得できないのは、生来より変わらず他者に些細に揺れ動く自分の内心でもあるのだ。であるなら、私は嫌気がさすほど他者に傷付くべきだ。嫌いになるほど向き合って、ウンザリして、その過程を逃げずに経るべき道理は明確にある。

 しかし、他人に向き合うっていったって、はたしてどうやって?

 

誰もわかってない自分についての弁明で愛が終わる

 

 どうして自分がこうなのか、どうしてあの時ああしてしまったのか、知らないまま過ぎていく。ことの顛末を見守るしか出来ない無力への諦めとか、意気地のなさ、情けなさを恥ずかしんで、やはり過ぎていく。自分を弁明する機会はライフスケジュールにない。なにがいやだった、これが苦手、これが嫌い、あの人が苦手、そういうものを認識するのが苦手であり続けた人生だった。多少の痛みを思い知ってからは言語化が上手いと人に言われることが多くなったけど、感情を言葉にするのは依然下手だった。必要のない言葉をつぐむことで人付き合いをして、あわよくば好意的に誤解されて、そこに相手にとっての自分があればいい。好意的に誤解をして下さい。私はそれを許します。それはやがて私のもつ他者存在への好意の示し方の定型となった。

 

 誤解は他者の眼差しで送られる私からの脱却でありながら、甚だしい侮辱に堕することがある。その執念を、6月の湿気と共に肉の残骸がなくなるまで嬲っている。ありあまる感情を引き伸ばしたり溶かしたり硬めたりすること20うん年も経てば感情は感情でしかないこともわかってくる。恨みにも意味はないのだ。私の感情の波が過ぎ去るのに時間が掛かるだけ。こうして内心を吐き出しているのは、人を恨んでいるよりも自分に向き合う方が少し気分がマシだからだ。別段。向き合うべき論点もない。

 

 空想は甘い。スーツを着てても愛は欲しい。ばかばかしいが、そのキュートな欲求を完全に抑圧すると人はおかしくなる。なので、つまり、恋とは人がおかしくならないためにあえておかしくなる行為に違いない。倫理的に許容されたおかしさとして、行使していい「理性のハメ外し」。寂しいと言っていいし、好きですということは一定の条件の限りで暴力とは見做されず、愛について語ることで得られる恍惚は万人の権利だ。

 

 人は心にケモノ(カタカナで書くとかわい〜)を飼っている。子猫、子犬、小鳥、それらは情念の炎を纏って荒々しく吹きすさぶ猛獣へと変化する。報われなかった自分の願いのために、そしてその願いは自分でさえも知り得なかった本心、果たされないことで初めて知覚する心臓病、自分を本当に切り刻むことができるその一点の逆鱗で。怒りは涙で、恨みは委ねた背骨の角度で、心が路頭に彷徨えば彷徨うほど、妄念は鬼になる。大人にならなければ、という抑圧が鬼を養う。なにも知らない人間が誤ってたんすをかたぱしからひっくり返して、隠してもないが見せたくも見たくもなかった一角を晒した。そもそもそれが混じっているたんすに目を付けたんだから、私は一生懸命開けないように努めたのを、当人の手で探し当てたんだから、仕方のないことだよね。

 

 私の最悪の心地に道理などないから、お行儀よく破綻した。理解、話し合い、妥協、そんなものはない。鬼が出たから終わり。あとの言葉は鬼が吠える。

 

 こういったブログを書き始めたのは、誰もが私を責め立てているような心地の中で自分というものを表明するためだった。自分を生存させるために、血を流すように文章を書いた。今もおそらくその頃と似たような気持ちでいる。時間を経ても私はずっと私と友達だ。違う点といえば、文章を書くにあたってのバランス感覚はやや変わっているか。

 

 こうして書くことが恥ずかしいけど、理解されない、と思う。理解して欲しいわけじゃないとは口で言うが、齟齬なく受け入れて欲しいとはきっと願っている。実在する誰かにそうした役割は求めない。ただ、もう少し自分の話を、誰かを傷付ける恐れを最小限にとどめながら、フラットかつ日常的に話せたら、その上で思想が強いとか思われないように、なんてことないように話せるようになりたいと思う。たぶん、報われなかった自分の供養は、終わった痛みとして語られることで果たされる、今はなんとなくそんな気がする。

 痛みの数だけ、平坦に語れる語彙が増えるって、そう思って話せたら、少し気が楽になるのだと思う。

 

 

なんだか生きていることにウンザリだ

 

希死念慮じゃない、ただこの先もこの鬱蒼とした脳みその密林で生きていくことがうっとおしい、まったく気概がない、生きていくことになんの気持ちもモチベーションもない。生きていくのか。いやだな。明日の天気が雨くらいの気持ちでいやだ。やだなあ。ほんとうにやだなあ。中途半端にいやでほどほどの徒労でメチャクチャにはなれないので、ただベッドの上で項垂れる肉体として存在しているだけだ。悲壮感も生まれない。あーもう眠れない。眠剤入れるしかないのか。あーーーーーーーー。今気が狂いたいのを毎秒我慢してる。そういう時がしばしば来る。でもそんなものに意味はなく、己の幼児性を許す甘さに甘んじすぎてる、あ、ああああ、ああ、あ、あ、………。甘んじ過ぎてる己への縛りとして、人としてあるべく我慢する。我慢する。我慢する。ほんとは手当たり次第ものを投げたい。叫び出したい。腕にフォークとか刺したい。毎瞬間、衝動がそうした時と自分を思い描かせてそこへ辿り着かせようとする。未来の残像をいくつも生む。現実と空想が捩れる。

少し発作が収まった。冷静になる周期だ。毎度毎度同じ情念と同じ嗚咽を溢して、進歩のない憂鬱に価値があるのかと戒める余裕が生まれる時間。そう思い返せば憂鬱でいることにも飽きた。その毎度の律儀な反復を一蹴するのも飽きた。どうなるのにも飽きた。そして前には進めない。疲れた。自殺する人ってどんな筋道を経た境地で死へ至るんだろう。生きていることの苦痛の熱が死を熱烈に求めるとばかり錯覚していたけど、もしかしてこんな風にしてしに近付くんだろうか。今日の私はしに正当な形式で近いのだろうか。こうして人はしんでいくんだろうか。お腹がすいた。肉体はワガママだ。散々に泣いて、かわいげでも見せ付けるように自然体の愛嬌をシステムに組み込む。

 

価値。なににもない。なにも興味がない。なにも見たくない。なにもなくていい。誰にも優しくしたくない。誰にも優しくされたくない。誰にも触りたくない。誰にも触られたくない。誰からも理解されたくない。多分誰も理解できてない。解釈。勝手にしろ。前頭葉が沼色に光り、私の目と空想上の他者の目を交互に入れ替えて入り混じる、それって私が生まれながらに病気ってこと?だったらどうなんの?私ってこれから解放される時が来るの?来ないまましを待つしかない?じゃあまた全部に意味がなくなっていくんだ。疲れた。疲れてない。平気。大丈夫。実はぜんぜん大丈夫。ただ明日にでも死ねたら幸福なだけで、私自体は全然大丈夫。

夕日の沈みだけが今日を証明する

 未熟な精神に集団は麻薬となる、というツイートを見掛けた。それで私の内的な弱さの集約と論点を露わにされた、見晴らしのいい見解を私物化してあっという間に時空を失った。私について語ることはなにもない。私の所有する素質、性質本質、過去趣味思想、所有された時点で事物は精彩を欠く薄情な友人であるので。あるいは、所有の浅はかな魂胆はバレる。ので、語るべき主題があるとすれば、私の実践、もしくは発覚し次第随時の更新。カエルの表皮のようにぬめって指先をねばつくあのやわこい粘膜にも似た、私の病的な日陰への対峙だ。憎たらしいはにかみの部分。許されようという魂胆。開示せずして受け入れられようとする手続き不履行。と、節操ない介入意欲。隙間に指を差し込みたいという下手な色気。ちょっと私は人間に許されすぎた。触れないでいることで空想をほしいままにしてしまったので、精神が肥えたのだ。笑いが出る。いけないよね。一点の振動から四方に広がる波としてのこの人間的脆弱を、手で遮る時間が必要だ。私は人よりも心が幼いので、世間知らずでちっともなにも理解していないので、その都度自覚して向き合わないといけない。都合よく手元には人間たちがリレー形式で引きずり出してくれた緩みきった皮膚と脂肪がある、この素体への注視が課題となる。己の広辞苑に定義化された私について語ることがらは無だが、語ることが素体を切り開く挑戦であるなら、語る。文章とは躍動する躍動の永久凍結であるから。

 

 共同体における融和作用への対抗手段を持つ者ほど賢いのは道理だ。振る舞いというのは己の身一つを外界に晒された頼りない一滴と考えた時の、重心を洗練させた所作のことで、警戒心で、筋肉に相当する。端的に、共同体を胎内と誤認した者は無様を晒し、眼孔を貫く眩しい光に外界であると認識した者はひとりでに立つ。この境目を作るのはなんだったか。痛みか眩しさか、外の手触りか、それよりももっと全体的なものか。基本的に融和は、個人の抗いがたい欲求から腕を伸ばして抱き寄せようとする。当然融和は融和の顔をせずに忍び寄るし、それが融和の顔をしていると気付いた時点でもう内心に芽生えた囚われたい欲求を排せないでいるだろう。意志の力だの人間の強さなどの漠然とした空想語を避けて選択肢を作るのであれば、ひとつはその共同体の作用をあらかじめ認知しておくという手。どれほどの愚かさか、精神の方角か、彼らの急所がどこにあるか、突出したいいところよりももっと基盤に値する、地面のような場所、どの土地から生えた根か、その外面を赤の他人とほとんど変わりない状態で認知できれば、個は個としての立場を新たに更新するだろう。翻っていえば、己の己に対する認知がない状態、それが共同体とも。

 本来。本来人は、自分の人生一つを受け止めるだけでもギリギリのキャパで生きている。自分の人生が自分の所有であれば他になににも侵される必要はなく、空想の余地なく、下手な人間芝居に没入する必要もない。例えば、人間にとって恋愛とは人生を手に入れる手頃でキャッチーな手段だ。出世は賭けるものも多いが、成功すれば物質と名誉心という空想の充足が期待でき、当然そいつでも人生を得ることができる。人は人生を獲得したいがために精神の活動を使役する生き物だということだ。そのために共同体という泥のねぐらを内部からかきわけ、手に掴んだものを見通わし、引きちぎり、共同体から奪い去ったかけらを私物化する。私物化しながら再び共同体に飲み込まれ、生まれた場所への回帰願望とでもいうようにそこへ定住する。その曖昧な夜と朝の区切りがつかないところが、その空想可能な景観が、私の明晰夢に違いない。

 

また意識が重たくなってきた。考え事のできないノロマの頭。寝ます。

優しい朝のために生き、優しい朝に死ぬ

 あまりにも優しい幸福が朝の顔をして私の真横に降り立ったので、何度でも涙ぐんでしまう。カリールジブランが、愛の優しさのために傷付きなさいと言っていたことだけが健康診断の待ち時間に唯一読み取れた文字列だった。ほんの一節だけで人の頭には鐘が鳴る。健康診断が自費だったのはやはり納得いかない。誰にもまだ知られていないせせらぎを見つけたような心地が、心を洗い落として、この優しい満たされの中で優しさに繊細な神聖さで傷付きながら、もしこのせせらぎの中で傷付けられることがあれば、私の幸福として受け止めようという啓示を、あたかも目覚めたように、あるいはまったく人を変えたみたく、思った。蔦として絡み付こうとする生半可な執着も、ぼやけた3色ほどの色彩で朝を彩る中空のように心地よく包み込むこの優しい実感の前では優先順位にすら登らない。私がこの空気を好いていることが、現実性が、感応が、他の情感を平定する。総じて、つまり、今この時間、満たされている。

 悪いことも好きだけど、良いことのほうがいい。冷たくもなれるけど、暖かくいないと好きな人を大事にできない。満たされないなりになんとか幸福に縋りつこうとして、半分幸せになれて、半分はどんどん壊れていく。私のめちゃくちゃな心を素体として大事にしたい人たちに多少なりの心の贈り物が出来るならそれも私なりに幸福で、生きていて良かったと心を震わす。私は人を好きになることは得意だけど、私自身の存在を道具に人を好きでいることは下手だ。それが悪質だとも知っている。簡単に人の心に触れようとして、簡単に離れる、ように見えるはずだ。わざわざ断言するまでもないことだけど、人と人では愛のルールが違う。私の手から生まれる愛は私とその人でなければ生まれなかった必然で、だけどそれは偶然だ。愛と憎悪は所有者を乗り換えながら廻り廻る、取っていた手が離れたら更新された愛で私の人生を愛し直す。もしくは、他者の弱い心を打ち明けて戴けたんなら持てる私の純情を瞬間的に総動員して、その瞬間に惹かれながら甘く補う、必然の慈善だとでもいい張るか。人との間に抗いがたい人類愛的な繋がりを感じた時、愛は惜しまない。だけどそれはその一時だけの輝きだ。高位に満たされたまま、私個人の存在はいびつに飢えている。渇く、満たされかける、中途半端な潤いが気管支に入って噎せる、私一人だけで。渇く、渇く、幸福、満たされる、幸福、幸福、幸福、幸福・・・。入り乱れた秤の上で愛する私のことを、愛と呼んだらいいのか孤独と呼んだらいいのか知ってる人はいるだろうか。そして自分の柔らかい心を文章に打ち明けた時、必ず思う。誰も共感するな。殺す。