2022/12/21

 

 自分という観念を固定する一つの定義が欲しいと思った。一つの意味合いを遵守することで崩れることない足場を取れるのなら楽だろうと。同時に自分というものを思い出すのに、語るのに、過去の後続ともなりたくなかった。なにもせずとも連続性からは逃れられないのに、意識して囚われに向かう必要がない。生まれ変わりたいと思った時に簡潔に生まれ変わりたい。小刻みに。容赦のない分別みたいに。かつ同時に、私を知っているかもしれない人に私の内心のことを知られたくないという嫌煙を持つ。底が知れたかのような表象と受容は浅ましい。一つ思い出した。私のひとすじとは、強固な一本筋ではなく、障害物を器用に避けながら直線を描く為の消極的な発明だ。

 アナタの文章が好きだといわれたので、ささやかに疎んだ。私は文章ではないが。文章としてただ平面的に浮遊する言葉として映るのなら、アナタは私の本当の友人でない可能性がある。(万物を許す代わりに万物を疎んでいる。世界に対する陰陽を私の好悪が担っている。その針と気が触れないように、触れないように、触れないように……。精神の綱渡り。この反復を反復して3年ほどが経過する。)嫌っているのではない。今この現状が苦しいのだ。(言葉の両義性によって失語症に悩まされる。つまりは、片方の天秤に触れた時、それはもう反対側の天秤を有することも示すため、そこに見合う言葉を失うことだ。)毳立つ。苦痛は生理的現象に精神を付すということだけが、また音楽のように繰り返される。

 水を含んだ毛布みたいに重たくなった存在の重量から逃れるに最適な手法を知っている。朝のような訣別。捨てながら一貫を得ること。生まれ変わること。人は何度でも生まれ変われる。背負わなければならない己などという像はどこにもありはしないので。