優しい朝のために生き、優しい朝に死ぬ

 あまりにも優しい幸福が朝の顔をして私の真横に降り立ったので、何度でも涙ぐんでしまう。カリールジブランが、愛の優しさのために傷付きなさいと言っていたことだけが健康診断の待ち時間に唯一読み取れた文字列だった。ほんの一節だけで人の頭には鐘が鳴る。健康診断が自費だったのはやはり納得いかない。誰にもまだ知られていないせせらぎを見つけたような心地が、心を洗い落として、この優しい満たされの中で優しさに繊細な神聖さで傷付きながら、もしこのせせらぎの中で傷付けられることがあれば、私の幸福として受け止めようという啓示を、あたかも目覚めたように、あるいはまったく人を変えたみたく、思った。蔦として絡み付こうとする生半可な執着も、ぼやけた3色ほどの色彩で朝を彩る中空のように心地よく包み込むこの優しい実感の前では優先順位にすら登らない。私がこの空気を好いていることが、現実性が、感応が、他の情感を平定する。総じて、つまり、今この時間、満たされている。

 悪いことも好きだけど、良いことのほうがいい。冷たくもなれるけど、暖かくいないと好きな人を大事にできない。満たされないなりになんとか幸福に縋りつこうとして、半分幸せになれて、半分はどんどん壊れていく。私のめちゃくちゃな心を素体として大事にしたい人たちに多少なりの心の贈り物が出来るならそれも私なりに幸福で、生きていて良かったと心を震わす。私は人を好きになることは得意だけど、私自身の存在を道具に人を好きでいることは下手だ。それが悪質だとも知っている。簡単に人の心に触れようとして、簡単に離れる、ように見えるはずだ。わざわざ断言するまでもないことだけど、人と人では愛のルールが違う。私の手から生まれる愛は私とその人でなければ生まれなかった必然で、だけどそれは偶然だ。愛と憎悪は所有者を乗り換えながら廻り廻る、取っていた手が離れたら更新された愛で私の人生を愛し直す。もしくは、他者の弱い心を打ち明けて戴けたんなら持てる私の純情を瞬間的に総動員して、その瞬間に惹かれながら甘く補う、必然の慈善だとでもいい張るか。人との間に抗いがたい人類愛的な繋がりを感じた時、愛は惜しまない。だけどそれはその一時だけの輝きだ。高位に満たされたまま、私個人の存在はいびつに飢えている。渇く、満たされかける、中途半端な潤いが気管支に入って噎せる、私一人だけで。渇く、渇く、幸福、満たされる、幸福、幸福、幸福、幸福・・・。入り乱れた秤の上で愛する私のことを、愛と呼んだらいいのか孤独と呼んだらいいのか知ってる人はいるだろうか。そして自分の柔らかい心を文章に打ち明けた時、必ず思う。誰も共感するな。殺す。