夕日の沈みだけが今日を証明する

 未熟な精神に集団は麻薬となる、というツイートを見掛けた。それで私の内的な弱さの集約と論点を露わにされた、見晴らしのいい見解を私物化してあっという間に時空を失った。私について語ることはなにもない。私の所有する素質、性質本質、過去趣味思想、所有された時点で事物は精彩を欠く薄情な友人であるので。あるいは、所有の浅はかな魂胆はバレる。ので、語るべき主題があるとすれば、私の実践、もしくは発覚し次第随時の更新。カエルの表皮のようにぬめって指先をねばつくあのやわこい粘膜にも似た、私の病的な日陰への対峙だ。憎たらしいはにかみの部分。許されようという魂胆。開示せずして受け入れられようとする手続き不履行。と、節操ない介入意欲。隙間に指を差し込みたいという下手な色気。ちょっと私は人間に許されすぎた。触れないでいることで空想をほしいままにしてしまったので、精神が肥えたのだ。笑いが出る。いけないよね。一点の振動から四方に広がる波としてのこの人間的脆弱を、手で遮る時間が必要だ。私は人よりも心が幼いので、世間知らずでちっともなにも理解していないので、その都度自覚して向き合わないといけない。都合よく手元には人間たちがリレー形式で引きずり出してくれた緩みきった皮膚と脂肪がある、この素体への注視が課題となる。己の広辞苑に定義化された私について語ることがらは無だが、語ることが素体を切り開く挑戦であるなら、語る。文章とは躍動する躍動の永久凍結であるから。

 

 共同体における融和作用への対抗手段を持つ者ほど賢いのは道理だ。振る舞いというのは己の身一つを外界に晒された頼りない一滴と考えた時の、重心を洗練させた所作のことで、警戒心で、筋肉に相当する。端的に、共同体を胎内と誤認した者は無様を晒し、眼孔を貫く眩しい光に外界であると認識した者はひとりでに立つ。この境目を作るのはなんだったか。痛みか眩しさか、外の手触りか、それよりももっと全体的なものか。基本的に融和は、個人の抗いがたい欲求から腕を伸ばして抱き寄せようとする。当然融和は融和の顔をせずに忍び寄るし、それが融和の顔をしていると気付いた時点でもう内心に芽生えた囚われたい欲求を排せないでいるだろう。意志の力だの人間の強さなどの漠然とした空想語を避けて選択肢を作るのであれば、ひとつはその共同体の作用をあらかじめ認知しておくという手。どれほどの愚かさか、精神の方角か、彼らの急所がどこにあるか、突出したいいところよりももっと基盤に値する、地面のような場所、どの土地から生えた根か、その外面を赤の他人とほとんど変わりない状態で認知できれば、個は個としての立場を新たに更新するだろう。翻っていえば、己の己に対する認知がない状態、それが共同体とも。

 本来。本来人は、自分の人生一つを受け止めるだけでもギリギリのキャパで生きている。自分の人生が自分の所有であれば他になににも侵される必要はなく、空想の余地なく、下手な人間芝居に没入する必要もない。例えば、人間にとって恋愛とは人生を手に入れる手頃でキャッチーな手段だ。出世は賭けるものも多いが、成功すれば物質と名誉心という空想の充足が期待でき、当然そいつでも人生を得ることができる。人は人生を獲得したいがために精神の活動を使役する生き物だということだ。そのために共同体という泥のねぐらを内部からかきわけ、手に掴んだものを見通わし、引きちぎり、共同体から奪い去ったかけらを私物化する。私物化しながら再び共同体に飲み込まれ、生まれた場所への回帰願望とでもいうようにそこへ定住する。その曖昧な夜と朝の区切りがつかないところが、その空想可能な景観が、私の明晰夢に違いない。

 

また意識が重たくなってきた。考え事のできないノロマの頭。寝ます。