散った花を名付けることはできない

 

私の話を聞いてくれる人がいた。

それは過去の私が身を寄せたものであり、他の諸事物と同様に過ぎっては翻るものであり、私のものだと口にする権利をしずかに失ったもの。私の話を聞いてくれる人がいない。がむしゃらに走って、つまづいて泣いて、腰を下ろして一息ついたベンチに私は一人だった。紙とペンはあった。音楽と私の部屋はあった。他人が揃えたテレビやスピーカーのライフラインがあった。それに気付く人生の節々で、私は一人ではなくなる。私を愛してくれたのかもしれない人たちが本人がそうと悟るよりも先に与えた反孤独の真綿の手触りが、私の背を撫でている。クッションの厚みが増した。出会いというものを簡素に表現するのなら、こうだろう。

話を聞くということにおいて、人を不快にさせない人だった。いい人柄をした、じっとりしたところのない人だった。彼を縮こめる鋭い視線の全てから自由であって欲しいと思っていた。自分が想定している自分と、他人から見える自分という幻覚の部分をまぜ併せて、彼が誰にも恥じることなく自分でいられる角度でいてくれるといいと思った。彼の周りのすべて、彼をいきいきとさせるよう廻って欲しいと思う。私は彼の手を借りて、善なるものに身を傾け、おのれの内部に腹をすかせて座っている邪悪なものの慰めに尽力した。彼を好きになる頃には、世界は朝露の爽やかを芳していた。彼と親しくすることは、私にとってはまったく善くいられるということだった。今はただ、それが私の心理的病理を慰めるための本能の手段でなかったことをひたに願う。私の話に退屈がらず付き合うことができる誠意のある人だった。その誠意がどこの誰へ向かおうとも、質を落とすことはないだろう。人の話を聞くことができるのなら、人の言葉を飲み込んで、自分ごとに向き合うことができる人なら、ロマンスていど造るに雑作もない。あの人と仲のいい人が私でなくても大丈夫だ。

 

こう見えて、以前に比べるといくらか健康になった。もう恋愛現象に関する諸々を必要以上蔑むこともないし、向けられたからといって怒りや恨みに支配されることも格段に少なくなるだろう。人に触れるだけ少しずつ生きやすくなる。同時にそれ以上、不健康にも生きにくくもなる。それを良い悪いで表現することは、生そのものを甘く見ている。もしくは、生の繊細で鬼気迫る揺らぎにあまりにも鈍い。

 

いつかまた、私の話を聞いてくれる人に出会いたい。その日が来ると信じる。