誰もわかってない自分についての弁明で愛が終わる

 

 どうして自分がこうなのか、どうしてあの時ああしてしまったのか、知らないまま過ぎていく。ことの顛末を見守るしか出来ない無力への諦めとか、意気地のなさ、情けなさを恥ずかしんで、やはり過ぎていく。自分を弁明する機会はライフスケジュールにない。なにがいやだった、これが苦手、これが嫌い、あの人が苦手、そういうものを認識するのが苦手であり続けた人生だった。多少の痛みを思い知ってからは言語化が上手いと人に言われることが多くなったけど、感情を言葉にするのは依然下手だった。必要のない言葉をつぐむことで人付き合いをして、あわよくば好意的に誤解されて、そこに相手にとっての自分があればいい。好意的に誤解をして下さい。私はそれを許します。それはやがて私のもつ他者存在への好意の示し方の定型となった。

 

 誤解は他者の眼差しで送られる私からの脱却でありながら、甚だしい侮辱に堕することがある。その執念を、6月の湿気と共に肉の残骸がなくなるまで嬲っている。ありあまる感情を引き伸ばしたり溶かしたり硬めたりすること20うん年も経てば感情は感情でしかないこともわかってくる。恨みにも意味はないのだ。私の感情の波が過ぎ去るのに時間が掛かるだけ。こうして内心を吐き出しているのは、人を恨んでいるよりも自分に向き合う方が少し気分がマシだからだ。別段。向き合うべき論点もない。

 

 空想は甘い。スーツを着てても愛は欲しい。ばかばかしいが、そのキュートな欲求を完全に抑圧すると人はおかしくなる。なので、つまり、恋とは人がおかしくならないためにあえておかしくなる行為に違いない。倫理的に許容されたおかしさとして、行使していい「理性のハメ外し」。寂しいと言っていいし、好きですということは一定の条件の限りで暴力とは見做されず、愛について語ることで得られる恍惚は万人の権利だ。

 

 人は心にケモノ(カタカナで書くとかわい〜)を飼っている。子猫、子犬、小鳥、それらは情念の炎を纏って荒々しく吹きすさぶ猛獣へと変化する。報われなかった自分の願いのために、そしてその願いは自分でさえも知り得なかった本心、果たされないことで初めて知覚する心臓病、自分を本当に切り刻むことができるその一点の逆鱗で。怒りは涙で、恨みは委ねた背骨の角度で、心が路頭に彷徨えば彷徨うほど、妄念は鬼になる。大人にならなければ、という抑圧が鬼を養う。なにも知らない人間が誤ってたんすをかたぱしからひっくり返して、隠してもないが見せたくも見たくもなかった一角を晒した。そもそもそれが混じっているたんすに目を付けたんだから、私は一生懸命開けないように努めたのを、当人の手で探し当てたんだから、仕方のないことだよね。

 

 私の最悪の心地に道理などないから、お行儀よく破綻した。理解、話し合い、妥協、そんなものはない。鬼が出たから終わり。あとの言葉は鬼が吠える。

 

 こういったブログを書き始めたのは、誰もが私を責め立てているような心地の中で自分というものを表明するためだった。自分を生存させるために、血を流すように文章を書いた。今もおそらくその頃と似たような気持ちでいる。時間を経ても私はずっと私と友達だ。違う点といえば、文章を書くにあたってのバランス感覚はやや変わっているか。

 

 こうして書くことが恥ずかしいけど、理解されない、と思う。理解して欲しいわけじゃないとは口で言うが、齟齬なく受け入れて欲しいとはきっと願っている。実在する誰かにそうした役割は求めない。ただ、もう少し自分の話を、誰かを傷付ける恐れを最小限にとどめながら、フラットかつ日常的に話せたら、その上で思想が強いとか思われないように、なんてことないように話せるようになりたいと思う。たぶん、報われなかった自分の供養は、終わった痛みとして語られることで果たされる、今はなんとなくそんな気がする。

 痛みの数だけ、平坦に語れる語彙が増えるって、そう思って話せたら、少し気が楽になるのだと思う。