ただ生活に身を置くだけでは納得できる生き方が出来ないから、文を書く

 

 昔から、灼熱に熔ける銅のような怒りが奥から沸き立ち、私自身の存在根本から許せなくなることがあった。ほのぐらい情熱と呼ぶのかもしれない。病的であるし、不健康な黒炎でもあったし、命名可能な精神的な不調の方に近しい。これから語ることも、夜な夜な執り行われる袋小路を追っているだけなのかもしれない。内的な情感の反復を追うことにわかりやすい進歩はないかもしれないけれども、その可能性を知覚してなお私はどうしても、私について語りたい。私が私を語るという行為について、より親しく、自然に、深奥でありたい。

 つまり、現時点の視座による概論、結果論とはなるが、私が内的な創世をはじめた中学生の頃より、私の書く文章は私自身への不納得の狼煙だったと結論付けたい。内向的な子だった。穏やかな両親に大事にされたこともあり、現実世界に対してなんの対抗手段も持たない愚図であった。その反面におのれの非力を自己批判することでおのれの矜持を保っていた。精神を生かすため、肉体に付随する精神のほうを犠牲にした。現実世界のおのれそのものを受け入れることから身を躱した。現実世界はさまざまが混雑していて、ままならなくて、息苦しいところだったから。身を置いている間はそれさえも忘れて、おのれが苦悶の顔をしていることすら忘れている。だからこそ、現実を避けていることさえ忘れる。

 この世に自分の満足できる肉体と精神とを両立させて生きている人間はどれだけいるのだろうか。もしかすると、その瞬間を私はすでに忘れ去った時空で所有していたのかもしれない。あるいは私がふけるべきはおのれの空白の残骸を食い潰すことではなく、幸福の瞬間の輪郭を触れ尽くして、覚えることなのかもしれない。幸福の方こそ私の一部とするべきなのかもしれない。私が納得できないのは、生来より変わらず他者に些細に揺れ動く自分の内心でもあるのだ。であるなら、私は嫌気がさすほど他者に傷付くべきだ。嫌いになるほど向き合って、ウンザリして、その過程を逃げずに経るべき道理は明確にある。

 しかし、他人に向き合うっていったって、はたしてどうやって?