風邪をひく

 

風邪を引いた。そういう象徴。人を規定するのはリズムで、盛り上がれるようなグルーヴで、健康な精神には健康な生活だということもそのステップのうち次第簡単に忘れうる。半年前の私とは半年前の私だったのだ。つまりは今日の私も今日の私ってことで、そこに救いを探してみて、ここ最近で一段と低下した視力がもっとも私を覗き込んだ。ぜんぶ。目の前に立ちはだかって焦点も合わなくなったそれら総体を、口にも出せないほど怖れて、怖る怖る許容して、また顔を少し背けているような気がする。今を生きているのが怖い。根拠ということであればすべての因果は自責に合流するだけなのだから、もう淡く風の冷たさに同一化させる。させた。精神は外界に託すことで切り離すことが可能だと知り掛けている。ほんとうに知るには推定、あと5年は掛かる。3日前の月はきれいだった。今日は灰青の夕空に光るにも及ばない繊月が切り抜かれ初める頃合いを帰り際に目撃して、ささやかさが少し恋人のようで沁みた。思えば、寒い日の愛おしさはひびの隙間に入り込む冷たい水みたいだった。それが光ることに似ている。手足が冷える、なかなか温まらない、朝の外気の冷たさに一生慣れない、毎朝喉が乾燥しすぎて乾燥していることを忘れる、バイトにいっつも5分遅刻する、人と目を合わせるのが苦手で自然と自然と人と気不味くなる、でもたぶん嫌われてはない、自分の時間をすべて睡眠に費やしてしまって人生設計狂う、しょうもないYouTubeを気付いたら視聴してる、私が愛したい私のことってそういうのなんだけどな。意味もなく帰り道がエンディングみたいになったことを思い出す。

 

愛について話している暇があれば料理でもしていた方がいい。どうせ私は私の愛についてしか知らないんだから。語ることがあるとすれば、私以外の作用の行き届いた私についてだ。所有しているという錯覚が泉を濁らす。私が世界のつま先だという祈りを欠けばたやすく不幸になれるのに、信仰心の捉え方をさいきんは忘れてしまっている。それでもいいか、眠いし。私が私なら、いっか。無駄なカロリーとか使いたかないので、高潔な痴呆になるのがベストのように思うけど、それは既に痴呆の発想かもしれない。白状すると、私の排斥的作用は私自身の弱さに対する非力です。私を傷付けるものがなくなった今でも、傷付けられることが下手なままです。そしてそれがなにものにも補完されない世界のことが、なによりも好きです。ありのままって感じで。

 

月、完全の美

夜天に霧掛かって、くすんだダークグレイであるのがいっそう果てしなく見える天空の下地に対し、月ばかりは質感を違えて判然と光を劈かせている異物な美、寒さが厳しいほど月が美しく研ぎ澄まされるこの時期から生存者が現れ始める。地上を統一しているのは街灯でも家々の電灯でも、ものものしく騒々しい四角形でもなく古来から月光だった。それを証明するのに、しまいには今日の一晩だって要さない。支配者は一瞬を制する。あたかも数千年そうであった面で、これからも揺るぎない面で。木々の幹の細かいひび割れ。今はなにも植えられていない歩道の植木の丸裸。夥しい光の交差する道路。冬の薄暗闇のすみずみに、月光の余波が行き渡っている。

 

 

2022/12/21

 

 自分という観念を固定する一つの定義が欲しいと思った。一つの意味合いを遵守することで崩れることない足場を取れるのなら楽だろうと。同時に自分というものを思い出すのに、語るのに、過去の後続ともなりたくなかった。なにもせずとも連続性からは逃れられないのに、意識して囚われに向かう必要がない。生まれ変わりたいと思った時に簡潔に生まれ変わりたい。小刻みに。容赦のない分別みたいに。かつ同時に、私を知っているかもしれない人に私の内心のことを知られたくないという嫌煙を持つ。底が知れたかのような表象と受容は浅ましい。一つ思い出した。私のひとすじとは、強固な一本筋ではなく、障害物を器用に避けながら直線を描く為の消極的な発明だ。

 アナタの文章が好きだといわれたので、ささやかに疎んだ。私は文章ではないが。文章としてただ平面的に浮遊する言葉として映るのなら、アナタは私の本当の友人でない可能性がある。(万物を許す代わりに万物を疎んでいる。世界に対する陰陽を私の好悪が担っている。その針と気が触れないように、触れないように、触れないように……。精神の綱渡り。この反復を反復して3年ほどが経過する。)嫌っているのではない。今この現状が苦しいのだ。(言葉の両義性によって失語症に悩まされる。つまりは、片方の天秤に触れた時、それはもう反対側の天秤を有することも示すため、そこに見合う言葉を失うことだ。)毳立つ。苦痛は生理的現象に精神を付すということだけが、また音楽のように繰り返される。

 水を含んだ毛布みたいに重たくなった存在の重量から逃れるに最適な手法を知っている。朝のような訣別。捨てながら一貫を得ること。生まれ変わること。人は何度でも生まれ変われる。背負わなければならない己などという像はどこにもありはしないので。